辺境で船を漕ぐ

自分が読みたい言葉を書きます。

反省するとはいかなる事か

半生を反省する前に

若い内の過去の反省は、苛烈なものになりやすい、と老師内田樹さんがブログで書いていた。あれがダメだとかこれが良くないとか、否定的な物になりやすいらしい。内田先生としては、だから反省するなという話ではなかったとは思うのだけれど、当該記事が見つけられないので事の真相は定かではない。

それはともかくとして、人生のステージの節目が来た、という時期くらい、反省を試みても良いのではないか、私は思う。自分の今現在を構成しているのはそれまでの来歴としての過去であるし、更にはその来歴自体を支えている、歴史としての過去がある。ここではひとまず、来歴について、考えていきたい。

しかし、闇雲な反省、というのは、教師が生徒の素行を叱るような、自分に対する説教くさいものになりやすい。反省というのは大概にして、子供の素行の悪さに対する、教師や親といった大人からの矯正を含むから、悪いイメージが強い。だからこそ、自分は過去を振り返らない、反省しない、という人がいても不思議はない。

だから先に考えるべき問題は、何のための反省なのか?ということである。

端的に述べるなら、自分が1番大事にしたい事は何かを改めて確認し、今後の指針とする為、なのだが。どうして自分の来歴を反省する事でそれが可能になるのだろうか。

 

過ぎ去ること、踏み止まること

タイミングを考えると、個人的な側面で言うなら、30代になってから約2年。そして今の職場で働くようになってから1年が過ぎている。生活は軌道に乗っているとは正直言い難いが、どうにか暮らしている程度には留まっている。社会人になればあっという間に時間が過ぎる。働く前までは全く実感が無かった。しかし1年間、僅かでも働いてみるに、ああ、こういう事なのか、と痛感してしまっている。本当の意味で日々が「過ぎる」。そして同時に何かが去っていく。自分が1年分の時間ごと、台風で吹き飛ばされて現在に至っているようにすら感じる。

 

少なくとも、学生時代はそうではなかった。確かに日々は過ぎていったが、決して去ることはなかった。1日1日を噛み締めて、踏み止まるように生きていたと思う。その時その時の瞬間に杭を穿ち、必死に繋ぎ止めるように。自分を舟とするなら、その航海は毎日、嵐に見舞われているような心持ちだった。学生時代を人生の夏休みと言う人もいるが、自分にとって、心の休まる時間は全くなかった。達成感に飢えていて、いつも何かになりたいと願いながら、しかしそのあまりのハードルの高さに絶望し、それでも何とかしようと足掻いて、焦り、そして転ぶ。今にして考えると窮屈で悲痛に思える部分もあるのだが、容易に否定して無かった事にも出来ない。

 

去っていたものは何か?

断絶して、忘れるという選択肢はある。恐らく大半の人間は無意識に、今現在の状況に適応し、過ぎ去る日々を過ぎ去る日々として粛々と受け入れる。ああ、早くなったな、と。もう何年も経ってしまった、と。もしも、そうやって過ぎた事にしかリアリティを感じ無くなっていくとしたら、それはとてつもなく虚しい。

去っていたものがなんだったのか、という問について、唐突な思いつきではあるのだが、東浩紀がクォンタムファミリーで参照していた、村上春樹の35歳問題を思い出した。拙速に結論を言えば、去っていったのは有り得たかもしれない自分の物語なのだろう。ありえたかもしれない、という仮定法過去と、出来なかった、という不可能性が、仕事して生活をする、という、この現実の周囲に蓄積する。この考えでいくと、実は去っていった可能性は、本当の意味では去らず、蓄積している事になる。例えば、今日、私は朝から夕方までとある家電量販店に立ちお客さんの相手をしている。しかし、過去のある地点において状況や条件が違っていたら、今頃はニューヨークのブルックリンでジャズピアノを弾いているかもしれない。

蓄積の度合いは恐らく、仮定法過去の前半部分に対する燻り度合いに比例する。つまり、あの時、こうしていたら、に対する燻りである。あの時真面目にジャズピアノを練習していなかったから、私は今家電量販店の売り場に立っている。これが今の現実で。もしあの時もっと真剣にやっていたら…の後が想像上の可能性の物語である。仮定法過去の前半の気持ちが満たされず、後半部分の可能性が肥大して溢れる閾値の年齢が35歳で、そこが人生の折り返しになる(と、言うのが35歳問題についての私の理解)。

要するに、自分にとっての1番大事にしたい事はなにか、を考える上で、ひとつ大きな手掛かりになるのは自分自身の過去の来歴で。特に、その過去において現実に体験した事ではなく、やろうとして出来なかった事や、その時の自分の気持ちの燻り加減なのではないかなあ、という事。だからこそ、反省というのは、ただ失敗を悔いたり、過去の成功体験を振り返って悦に浸るのではなしに、これからの生き様に侵食していくであろう、燻りを見つける為にあるのではないか、と考える。

そして反省を有意義にするには、生きた時間の長さだけでは足りず、学問的知見や、文学的な想像力が大きな助けになりえるのだが、いい加減にブログを更新したいので今日はこの辺りで失礼します。