辺境で船を漕ぐ

自分が読みたい言葉を書きます。

草の根に出来る事を考える その①

前置き:考えるための言葉について、あるいはゾンビに抗う術としての

このブログは、自分が読みたい言葉、考えるための言葉を書く場所である。そのように宣言しているのは、もちろん文字通りの意味もあるのだが、一方で、ある種の世間的な事柄とこの場所とを切り離す言い訳でもあった。それは単なる現実逃避ではなく、自分の軸を守り、周囲の流言飛語に惑わされないようにするという自己防衛の意味もある。なにしろ今の世の中、メッセージを伝える手段はいくらでもある。当然、何かを知る機会というのも莫大に増える。しかし、どんなに知る量が増えようが、その中で自分にとって必要なモノゴト、大事なモノゴトの数には限りがある。量が多くなっても、その質を判断する方法を知らなければ、やがて砂漠の流砂に埋もれて窒息してしまう。考えるための言葉を書く、という事で私が想定しているのは、自分がいかにして質を判断しているのか、ということについて自覚的になる、という事でもある。

ほんとのところを述べると、私にとっては「考える」ことと「言葉を書く」こととは同じ意味になる。だからこそ、「考えるための言葉を書く」というのは「頭痛が痛い」という程度に冗長な表現で、違和感もある。言葉を書く時には常に考えているし、考えている時には言葉を書くように考えている。

しかし、三十数年も生きてきて、最近ようやく身に染みて痛感したのだが、少なくとも私のこの感覚は常識ではないらしい。Twitterを開けば、条件反射で見知らぬ誰かに罵詈雑言をぶつける人間はいるし、Facebookを開けば、他人のコメント欄で自分の自慢ばかりする人間もいるし、言葉を書くことで仕事しているはずのマスメディアも、国家の官報に成り下がり思考停止している節がある。そんな方々が「考えるために」言葉を書いている、とは到底思えない。少なくとも、私自身が思考する上では無駄なものばかり増えている。ただただ、他人にぶん投げるような言葉の方が多くなっている。随分と生きづらい、病的な世の中になったものだなと常々思っている。

だから、「考えるための言葉を書く」と持って回った表現をするのは、そうした思考なき「ロクデナシ」の、言葉のゾンビ達に抵抗する意味合いも籠めてのことである。そう、ゾンビなのだ。脳みそを誰かに乗っ取られたかのように、思考せずに言葉を垂れ流す。今、特に日本語は、ゾンビが吐くような毒液にこっぴどくやられているような、そんな気がしている。

「言葉を書く」というのは、もっと孤独に、しかし希望に満ち溢れていて欲しいと思う。どうしてもこれが書きたいと思って、でも書けなくて四苦八苦した挙句ようやく書いて、でもなんだか釈然としなくて…みたいな、産みの苦しみの中にこそ希望が見いだせるのではないかと思う。しかし当の言語が毒まみれではどうしようもない。だからこそ、まずはゾンビに抗う術としての、考えるための言葉を書く場所が必要なのだ。

と、毎度のことであるが、タイトルにある通りこの節は「前置き」で、この後コロナウィルスの事について書くつもりだったのだが、長くなった上にブログの更新自体滞っているので、一旦ここで止めていくこととする。