辺境で船を漕ぐ

自分が読みたい言葉を書きます。

とりあえず再開してみようということで:言葉を書く快楽について

 数え切れないほどの三日坊主を繰り返してきたこの四半世紀プラスアルファの人生の中で、唯一、まとまった年数、まともに継続していた習慣をひとつあげるとしたら、日記をつけるということになるだろう。ただ「日記をつける」ではなく、インターネットという、不特定多数に見られる場所で、自分の日常のあることないことをさらけ出すという行為、である。高校時代から数えて大学の学部時代の終わりまでの数年間、毎日更新するということはなかったけれど、日々のどこかで、「今日はブログを更新しよう」とか、あるいは「めんどくさいからいいや」とかそんな選択が頭をもたげていた。

 

 今にして思えば、ブログを更新していた時期と、自分の感性が充実していた時期とは一致していたのではないか。書くことで自分の考えやある種の日々の妄想を、稚拙ではあっても形にして、数人のわずかながらの読者にだけでも読んでもらう。そういう小さい循環の中で育つものもあったのかもしれない。自分の書いたものに自分で納得する、という小さい達成と、他人に読まれる場所で書く、という小さい自己顕示欲との、気分の循環。書いている間にしか捕まえられない言葉、出会わない思考というのがあるのだなと、当時の自分は漠然と(直接このようにではないにせよ)考えていて、だからこそ、やめずに更新を続けていたのだと思う。

 しかし、それはそれ。単なる学生時代に熱中していた趣味として片付けることもできる。この機会に、わざわざこんなモノローグを書くことに時間を割いているのにはなぜか。単純に言えば、欲求不満なのだろうとは思うが、だとすればさらに、それがどういう欲求なのか、どういう種類の不満なのだろうか、という疑問にいきつく。

 私自身はおそらく、言葉を書く快楽に飢えている。これがひとつ。書くことでしか得られない快楽、またはある種の境地のようなものがあることを直観している。仮にこれに代価できる快楽があるとすれば、言葉を読む快楽である。しかし、現に飢えている事を考えれば、要するに私の読みたい言葉が世の中に少なすぎるということなのだろう。自分の読みたい言葉に出会う機会が少ない、だから自分で書いて見つけるという論理になる。

 しかし一方で、その飢えは、ある種、無意味で無駄な飢えでもある。読みたい言葉に出会わなくても生活は成り立つ。しかし、それでは花がない。飢えた気分で見る世界は、たとえ食欲が充足していたとしても、荒れ果てた大地にひとりでいるようで寂しい。私はできるだけ諦めたくないし、我慢もしたくないが、それでも自分自身の努力の不足や、周囲との関係の不足や、あるいは環境によってどうしようもなくなることもある。言葉を書く快楽には、そのどうしようもなさを、解決することは滅多にないけれど、その質をやわらげるような、なめらかにするようなものがあると、私は考えているらしい。

 「らしい」というのは、今までそんなことを言葉にしたことがないから、自分でも書いといて「本当かなあ」と思っているからだが、こういう唐突な思考に行き着くことも言葉を書く快楽なのだろう。

 ツイッターの最大投稿文字数が140字で、ここまで書いた文章は大体10ツイート分あるものだから、この文章は「無駄に長い文章」ということになるだろう。ひとりのツイートが140文字マックスで、それが10個もツイートされたら、タイムラインが埋め尽くされて不快な気分を与えるのは間違いない。そういうある意味「見えない気分」に向かって「忖度」して、自分の書きたい言葉を簡略化して単純化することを私は嫌う。思いついた言葉はそのまま書きたい。削るのは全部書いてからだ。書く前に、枠に収める事が目的になるのは何か違う。枠は自分で作りたい。

 以上でお分かりいただけるだろうが、この文章を書いている私はわりと、いや、きわめて傲慢でわがままな、ひどい人間である。大変に困ったことだが、他人ならば逃げてもいい。しかし、私自身はそういう自分と死ぬまで付き合うしかないので、うまくやりくりする手段を見つけるしかない。そのひとつが書くことであると言えるだろう。どうにかなるものではないが、やりくりしていくほかはない。