辺境で船を漕ぐ

自分が読みたい言葉を書きます。

橋本治を読むことについて

  最近、ここ半年ぐらいの話だが、過去に自分が途中でやめたり、諦めたりした事をやり直す、という事を基準で趣味を始めている。特に、無闇にやっていたことではなく、殊更の熱意をもってやっていた事である。このブログもそのひとつだが、今取り組んでいるのは他に2つある。ひとつが楽器の練習で、主にドラム。こちらの話については、私は最近までバンドでキーボードを弾いていたのだが、そういった活動を一切やめた事とも関わっているので、詳しい話はまた今度にする。

もうひとつは、読書について、当時読んでいた好きな作家、気になっていた作家の作品を追いかける、ということ。今日はこちらのお話をしてみようと思う。

  最近は、橋本治の作品を追いかけている。大学時代にゼミの教授が授業の副読本として橋本治の著作を挙げていて、それで気になって読んだのがきっかけではあった。しかし、当時はものぐさな性格がたたり、エッセイや新書の類は読んでいたが、彼のメインの仕事だったと思われる、長編小説の方は読んでいなかった。

  そうしているうち、2019年の1月に、橋本治は鬼籍に入ってしまった。もうこの人の時評が読めないのが残念だな、と思うのと同時に、もし、橋本治がある状況を見た時にどう考えるか、を自分が考える時に、それを考えるだけの情報が自分にあるだろうか、という事に思い至った。具体的な根拠はないが、しかし確実なことはひとつある。そもそも「もしとある人物だったら、とある状況をどう考えるか」という思考自体が稀有である、ということ。加えて、それを「橋本治」という主語で行う人間はほとんどいない、ということである。

 だからこそ、今現在で、彼の著作を追いかける意味があるような気がしている。おそらく、今回の参院選の動向を見ていく中で、そういう気分が生まれたのではないかとは思うが、それは近い過去から最も妥当と思われる要素を抜き出したに過ぎない。現時点では上手く言語化は出来ない。そもそも気のせいか、本当に意味があるかどうかは、著作を読み込んだ上で目撃する現実を見て判断するしかないだろう。ただ、私にとって、腰を据えて物事を考えるというとき、そのものさしになってくれる人間の一人が橋本治だというのは確かである。

 なんてえらそうな事を言っている現在、「双調 平家物語」の2巻の途中まで読んでいる。勝手に文語体で読みづらいのではという偏見があったのだが、全然文語体ではない。これがものすごく読みやすい。全部で12巻あるみたいだから、少しずつ時間を見つけて読んでいこうと思う。定期的に読んだ内容のお話をしていければと思うが、何にも音沙汰が無くなったら、挫折したと思って生暖かくみていただければ幸いです。

 

双調平家物語〈1〉序の巻 栄花の巻(1)

双調平家物語〈1〉序の巻 栄花の巻(1)